2009年10月28日水曜日

他人のブログに不法侵入していませんか?

ちょっと、強烈なブログを見てしまった。
そこには、あるブログを自身のブログで批判し、かつ、対象のブログにも批判のコメントを投稿しているような気配がある。
そのブログでは、過去にも何回も同様のことを様々なブログに対して繰り返しているようで、その攻撃から逃れるためには、次の2つしかないような感じなのだ。
  • 相手の論理を受け入れる(受け入れたふりをする)
  • ブログを閉鎖する
そのブログがあまりにも強烈だったので、他人のブログ記事を批判する行為のことを少し考えてみた。


まず、普通の生活のことを考えてみて欲しい。

普通の生活の中では、他人の家に、突然押し入ることはしない。
突然でなくても、入ってもいいかと尋ねて、ダメだと言われれば、入らない。
当たり前のことだ。
もし、そんなことをしたら、住居不法侵入で逮捕されてしまう。
たとえ法律で罪状が定義されていなくても、それは人間性を疑われてしまう行動だ。

ましてや、不法侵入してた家の住人に対して、「この部屋の電気が暗い」とか、「カーテンの趣味が悪い」とか、「よく食事で我慢してしているよね」などと言うなんてことは考えられない。
これも、普通の人なら、当たり前のように理解できることだ。


ブログは、殆どの場合、誰でも閲覧が出来るような状態でインターネット上に公開されている。
このインターネット上に公開されているということを根拠に、「公開されているのだから、それに対して言いたいことを言っても問題ない」と考えている人がいるようだ。
 「言われたくなかったら、公開しなければいい」という人もいる。

でも、その論理は見当違いだ。

一軒家を想像して欲しい。
その家は、ある部屋がガラス張りの部屋で外から丸見えだ。
たまたまその家の前を通りかかった人が、ガラス張りの部屋のベッドの配置が自分の趣味に合わないからと言って、その家の住人に「ベッドの配置を変えろ」とは、普通は言わない。

個人のブログは、部屋をガラス張りの部屋を作るよりも、更に、一歩進んだところに位置すると考えている。
部屋ではなく、自分の心の一部をガラス張りにしてみようとする試みがブログなのだ。

ガラス張りの部屋のベッドの配置に口出ししないのに、部屋よりももっと大事な心という部分をガラス張りにしたブログに対しては、平気で口出しする人がいるのは、不思議でならない。

そのブログが、誰かのブログを批判しているとしたら別だが、普通の人間のブログ(芸能人も含む)を、自分の考えとは違うからといって、相手の気持ちを分かろうともせずに、批判を書き込むのは、どうかと思う。(新聞記者や評論家、政治家といった人たちは、それなりの責任をももって文章を書いているので、批判も受ける覚悟はあるだろうと想像している。それ以外の人は、普通の人という位置づけになると考える。)

もし、何か批判的なことをコメントしたくなったら、そのブログの投稿内容ではなく、そこを素通り出来ない自分の心にこそ目を向けてみるべきだ。


他人のブログに執着する様子を、例え話にしてみる。

ある男が、知人からよく釣れる場所の情報を教えてもらい、そこで釣りをしようと車を走らせました。
しかし、彼は、道を間違えてしまいます。
それに気付かずに、車を走らせ続けると道の行き止まりになりました。
そこには、大きな池のある家が、一軒あるだけ。
彼は、仕方がないので、そこで我慢して釣りをすることにしました。
ところが、釣り道具を忘れたことに気付きました。
そこで、彼は、その家の住人を呼び出し、「池で釣りをするから釣竿を貸してくれ」と言いました。
住人は何が何だか理解できません。
彼は言いました。
「教えてもらった情報の通りに来たんだからここで釣りをするのです。」
住人は答えます。
「私の家の池ですから釣りはできませんよ」
彼は言いました。
「あなた何言っているんですか?ちゃんと、鯉が泳いでいるじゃないか。釣竿がないからそんなこと言っているのなら、今すぐ買って来て下さい。」
そして、突然自分が準備した釣りのエサを住人に見せながら「いいでしょ、このエサ!なかなか手に入らないんですよ。分けてあげましょうか?」とエサの自慢を始めました。
彼は機嫌良く釣りをはじめます。
彼は釣りをしながら真顔で言いました。
「それにしても、良いお住まいですね。私、気に入りました。一緒に住んであげますよ」
やがてその家の住人は、その家を手放してしまいました。
彼は思いました。
「これで、誰にも邪魔されずにのんびり釣りができる。あの住人がいたから窮屈だったんだよねぇ~」
「そうそう…」
彼は驚いて声の方を振り向きました。
ビキニを着た見知らぬ女が、池に消毒用カルキの錠剤をいくつも投げ込んでいました・・・。

そんな様子を新居から眺めていた元祖住人は思いました。
「直接関わらずに、外から眺めていたら、面白いんだけどなぁ~・・・」

「勝手に迷い込んできたくせに、それは無いだろう…」、そんな感じだ。

そこが、自分の目指していた釣り場じゃなかったら、その場所にこだわらずに、自分の釣り場を目指して出発すればいいじゃないか。

どうしてもそこで釣りをさせてもらいたいなら、それなりの段取りや誠意の表わし方があるはずだ。

どんなに綺麗だと思っている錦鯉でも、それを他人の池に勝手に放しはいけない。

当たり前のことだ。

誰かを批判しまくるようなブログでないのなら、そっとしておいてあげようじゃないか…。

大切な心を見せようとしているのだから…。

そして、そこは、その人にとっての大切な世界なのだから…。

2009年10月21日水曜日

貧困率は指標として妥当なの?

貧困率が発表されて、それによると国民の7人に1人が貧困状態であるということである。

でも、直観的に、この指標には疑問を感じる。

国民の大半が貧困に陥っているとき、今の貧困率の計算式は意味を持つのだろうか?



平均収入を基準に算出しているようだが、平均収入であれば貧困でないと言えるのかという論点が欠落している。

また、全体像を把握できるように、富裕率というのも合わせて発表されるべき指標である。それも合わせて眺めないと、本当の問題は見えてこない。



発表された貧困率は、「平均収入からの乖離が著しい人の割合」という意味しか持たない。


生活を切り詰めずに、標準的な生活をできる収入を基準とすべきだろうと思う。

標準的な生活って、どんな生活?

そんなことの検討から入らなければ、ただ単に数字を加工する数字遊びによって現実を議論していると、平蔵さんの二の舞になってしまう。

数字遊びはもうやめて頂きたい。

また、指標を持ちる場合は、その指標の持つ意味を正しく理解し、ネーミングも妥当なものとしてもらいたい。

今回の指標の正しいネーミングを考えるのは面倒だからやらないが「貧困率というネーミングが誤りである」ということは明白だと思う。

2009年10月18日日曜日

流通業・安売り業は、そろそろ自覚しなければならない

流通業(スーパー、コンビニ、量販店…)は、そろそろ自分たちが日本の社会を破壊していることに気づ付き、贖罪の日々に入らなければならない。

最近、「正直」を前面に押し出し、店舗を増やしているスーパーの特集をテレビで見かけた。売価は、他のどの店よりも安く設定しているという。その番組では、その経営者を大いに賞賛していた。


さて、ここから、話は一般論として述べる。

この安売りに取り組む姿勢が問題だ。その方法は、大きく3つある。
  1. メーカーに原価の値下げを強要せず、自らの内部的な努力によって、売価の引き下げを実現する
  2. 「販売力」というものを武器に、メーカーと原価交渉して、売価の引き下げを実現する
  3. 国内や海外の中から、原価の安い仕入れ先を探し、売価の引き下げを実現する
原価の引き下げは、メーカーを苦しめ、国内産業の空洞化を引き起こす。

また、効率化を引き起こし、その結果、人々は、仕事を奪われ、路頭に迷う。

少し、話は逸れるが、 温室効果ガス削減の流れの中、恐らく、多くの日本人は、中国に対して「なぜ、環境のことを考えないのだろう・・・?」という疑問や憤りを感じていることだろうと想像する。

なのに、この「安売り」をする経営者たちは、あたかも消費者の為の救世主や成功者のようにもてはやされる。(これは、マスメディアの責任かもしれないが・・・)

戦後、これまでの歴史の中で、スーパーや量販店は、日本の社会や文化をどれだけ破壊してしまったかを、自覚して欲しい。

流通業に限らず、大型チェーンは、もれなく地域社会の破壊者だと言っても過言ではない。

激安の散髪屋や美容院などというのものさばり始めた。

これらは、一般市民の立場に立てば、その時は、とても便利でとても助かるのだが、でも、将来的には絶望的だ・・・。



なぜなら、集落から、商店を消滅させ、商店を消滅させてしばらく活動したあと、不採算店の整理や倒産などといって、その地域から無くなる。

残るのは、住宅だけで、それは、廃墟の一歩手前の状態だ。やがて人は住まなくなる。

そんなことが繰り返されるのである。


そんな安売り・安値のチェーン展開を目指す諸君、
もし、その地域で、はるか遠い未来まで、そのサービスを続けなければならないという責任感がないのなら、もう、その活動はやめてもらいたい。

っていうか、そんな約束を出来る人など、誰もいないはずだ。

「いや、おれは約束する」なんていうやつがいたら、そいつはアホだ。

もし、商店街が発達している地域に、新規出店を考えているようなら、地元の商店をリスペクトし、出店は見送るべきだ。


成熟社会においては、企業は、もっと考えるべきことと役割があるはずだ。



亀井さんが、経団連の御手洗氏に言って話題(というか問題?)になった言葉がある。
その言葉で、亀井さんが言いたかったのも、こんなことだったのではないかと想像している。
こんなこととは、「経済や利益のことばかり言ってないで、社会問題に対して君たちにできることがあるだろう。なぜ、しない!」という感だ。


余談だが、成熟社会において「成長率」や「前年比」などという変化を表す指標は不要だ。しかし、それらの指標を重視して企業に某かを迫るような雰囲気を作り出す、株式市場やそれに関わる人たちも、もう少し賢くなってもらいたいものだ。

思いつきだが・・・
例えば、東証一部、二部などの上位に「東証安定部」っていうものを作るとか。その位置づけは、『社会に貢献する、最も信頼できる企業のみが上場できる』といったことにして、「◎◎比」とは別の基準で評価するのだ。例えば、社会貢献度とか・・。そこに属している企業に投資しているということにも、社会的なステータスを持たせても良いかもしれない。株主が主張できるのも、社会貢献に対してのみとして、利益や配当という低い次元の要求は出来ないようにする。

なんせ、企業を『~~比』という指標の呪縛から解放してあげることが重要だと考える。

2009年10月15日木曜日

「男女別姓」に関する議論についてひと言

最近、男女別姓についての報道をちょくちょく耳にする。
  • 男女別姓賛成
  • 男女別姓反対
それを主張する人それぞれに、それぞれの理由はあるだろう。

その理由には大いに耳を傾けるべきだと思う。

しかし、そんな真剣な議論に対して、テレビで評論家が「世界中で男女別姓が受け入れららていないのは日本だけだ。男女同姓にこだわれば世界に取り残される」みたいなコメントを恥ずかしげもなく吐いていたのには、虫唾が走った。

男女同姓、男女別姓に関わる問題に直面していないコメンテーターが、世界標準だと知ったかぶって語るんじゃない。

これは、「英語が世界標準になっているのだから、日本人は日本語は捨てて、英語にすべきだ」と主張しているに等しい。

世界と比べて、その相違を論拠にすることは、日本の文化を頭ごなしに否定することになり、やがて、良き日本の文化は消え失せてしまうだろう。

もしかしたら、もう、消え失せているのかもしれない・・・。
  • 知識だけで生きているような有識者・評論家・キャスター・コメンテーターの口から出まかせの「世界標準は・・・」といった浅はかな話を真に受けることなく
  • 実際は「男女同姓・別姓」というテーマとは無関係なのに、テレビの出演者らにそそのかされた大衆の意見に振り回されることなく
  • 世界標準などと比較を重視せず
  • 日本の文化や歴史を振り返り
  • そして賛成・反対の主張をしなければならない状態に置かれた当事者たちの話を良く聴いて
といった中できちんと判断してくれることを願う。