2009年11月10日火曜日

日本の教育を良くするためには、偏差値という概念を廃止すれば良い

高校・大学進学を考えるとき、必ず直面させられるのが『偏差値』だ。
  • 自分の偏差値
  • 進学先学校の偏差値

それを比較して、自分たちが当てはまる枠を探し、その枠に自分たちを当てはめていく。

例えば、大学入試。
偏差値によって、合格の可能性のある学校を絞り込み、入学試験を受け、無事入学という運びになる。そして、無事入学したら、その学校にある限定された部門の中から自分が勉強したいことを探し出し勉強を始める。運が悪ければ、勉強したいことが見つからず、入った時点で目標を見失ってしまう。

偏差値は、自分が進学に失敗して浪人したいための大切な指標として大いに活用されている面はある。しかし、その本質は、教育産業を維持するための指標だということに、社会は気付かなければならない。

もう、そろそろ、偏差値なんて概念は消し去ってしまえば良いんじゃないかと思う。(ついでに、センター試験も…。)

なぜか?
それを理解するためには、偏差値という概念がなくなったときのことを想像してみると良い。


偏差値という指標が存在しない中で、進学先をどのように決めれば良いのだろうか?

「入学試験に合格できる学校」という視点では探せなくなる。

 では、何によって探すか?

その学校が自分にとってどのようなメリットがあるのか?」ということに意識を向けなければ決められなくなる。

 つまり、「偏差値の高い大学」なんていう分類は無価値になるのである。(高校を選ぶ時は、有名大学への進学率なんて基準はあてにならなくなる。)
  • その大学では、何が勉強できるのか?
  • 何を研究しているのか?
その辺のことに注目して、決めるようになるだろう。

例えは、理系であれば、誰かが書いた論文の追検証ばかりしているような研究室しかない大学だと知れば、行きたいとは思わない人も出てくるだろう。

学校は、今の偏差値に基づいた進学システムの上に、アグラをかいてはいられなくなる。実績を残さなければならない。実績は無くても、少なくとも魅力的な研究をしなければならなくなる。「大学」というだけで存在しているような大学は淘汰されるだろう。


大学側にもメリットはある。
自分の研究していることに興味を持った人が集まるようになり、学問の発展は加速するだろうと思う。

そして、勉強に興味のない人は、無理に大学に行く必要も無くなる。それが社会の前提になれば、大学に行かないことに引け目を感じる必要も無くなる。

境界が不明確になっている教育と学問が分離され、学問は職業と並列の位置に正される。

その結果、乱立した大学の多くは、存続することが出来なくなるだろうが、それが、日本の学問の発展を妨げることにはならないだろう。むしろ、効率的に研究が進むことが期待できる。
 
また、多くの若者は進学という社会の妄想から解放され、自分の望む職業人となるための道を進めるようになり、様々な産業は発展するようになる。

このような流れの中で、保護者は、教育費という名目で大金を吸い上げるシステムから解放され、自分たちの生活を豊かにするためにお金が使えるようになるのだと考える。


「教育産業の保護はどうするの?」と問題提起をする人はいるかもしれない。

教育産業に関わる人たちは、今まで、甘い汁を長きにわたって吸い続けていたのだから、もういいんじゃない…。


その他に、一般の人から大金を吸い上げるシステムが存在している。
ぱっと思いつくのが不動産業。
証券業と金融業も怪しいにおいを感じている。
そのあたりのことは、また、私の頭の中に妄想が湧きだした時に書いてみたいと思う。

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